やはり去年どおりに、向島の親の家で暮らした。その頃はまだ、書生が暑中に温泉や海浜へ行くということはなかった。親を帰省するのが精々であった。僕のような、判任官の子なんぞは、親の処に帰って遊んでいるより上の愉快を想像することは出来なかったのである。
相変らず尾藤裔一と遊ぶ。裔一の母親はもういない。悪い噂(うわさ)が立ったので、榛野は免職になって国へ帰る。尾藤の母親も国の里方へ返されたのである。
裔一と漢文の作り競(くら)をする。それが困(こう)じて、是非本当の漢文の先生に就いて遣(や)って見たいということになる。
その頃向島に文淵(ぶんえん)先生という方がおられた。二町程の田圃を隔てて隅田川の土手を望む処に宅を構えておられる。二階建の母屋に、庭の池に臨んだ離座敷の書斎がある。土蔵には唐本が一ぱい這入っていて、書生が一抱ずつ抱えては出入(だしいれ)をする。先生は年が四十二三でもあろうか。三十位の奥さんにお嬢さんの可哀いのが二三人あって、母屋(おもや)に住んでおられる。先生は渡廊下で続いている書斎におられる。お役は編修官。月給は百円。手車で出勤せられる。僕のお父様が羨ましがって、あれが清福というものじゃと云うておられた。その頃は百円の月給で清福を得られたのである。
僕はお父様に頼んで貰って、文淵先生の内へ漢文を直して貰いに行くことにした。書生が先生の書斎に案内する。どんな長い物を書いて持って行っても、先生は「どれ」と云って受け取る。朱筆を把(と)る。片端から句読(くとう)を切る。句読を切りながら直して行く。読んでしまうのと直してしまうのと同時である。それでも字眼(じがん)なぞがあると、標(しるし)を附けて行かれるから、照応を打ち壊されることなぞはめったに無い。度々行くうちに、十六七の島田髷(まげ)が先生のお給仕をしているのに出くわした。帰ってからお母様に、今日は先生の内の一番大きいお嬢さんを見たと話したら、それはお召使だと仰ゃった。お召使というには特別な意味があったのである。
或日先生の机の下から唐本が覗いているのを見ると、金瓶梅(きんぺいばい)であった。僕は馬琴の金瓶梅しか読んだことはないが、唐本の金瓶梅が大いに違っているということを知っていた。そして先生なかなか油断がならないと思った。